生い立ち
昭和30年8月、鹿児島県薩摩半島沖、上甑島に農家の次男6人兄姉の末っ子として生まれました。
姉を頼って高校進学のため、中学2年で親元離れ鹿児島市内の中学校に編入。
鹿児島県立鹿児島工業高校 に進学、就職先はゼネコンの予定でしたが、
高校3年の夏、性格から考えて設計事務所のほうが合うと変更。
昭和49年、好きな京都にある㈱内藤建築事務所に就職出来ました。
内藤建築事務所時代
福岡事務所に配属され、病院・福祉施設の設計・監理を学びました。
<出逢い>
昭和52年 その昔、映画にもなった福岡市南区の
「しいのみ学園」が精神薄弱児 (当時、今は知的障がい児)
通園施設に建て替える時の担当を任されました。
園長・曻地三郎先生との出逢いで福祉の心を学ばせて戴きました。
平成25年11月27日107歳でご逝去なさいました。心よりご冥福をお祈り致します。
昭和54年 農協共済別府リハビリテーションセンター第3期工事
内藤建築事務所の名作中の名作でした。
残念ながら現在は建て替わっています。
全国に先駆けた重度障がい者更生援護施設 とリハビリ病院でした。
設計サブそして工事現場常駐者して設計監理の2年余りで
私がやるべき仕事との思いを強く持ちました。
「しいのみ学園」「別府リハビリテーションセンター」との出逢いが
その後の人生の『もと』となりました。
その後、長崎労災病院改築5ヶ年事業のうち3ヶ年関わります。
13年半の間で学校・庁舎各1件以外は医療・福祉建築に従事しました。
昭和60~62年 医療法人財団みどり十字行橋厚生病院防音改築工事設計・監理を
最後にお世話になった ㈱内藤建築事務所を退社しました。
今日までそして、あしたから
しばしの充電期間は一粒種の倅と過ごし、昭和63年4月に現事務所を設立しました。
医療・福祉の仕事がしたい、自分が代表者なのだから
とことんお客様(建築主)と納得するものをつくりたい・・・・。
<しかしそう簡単に仕事はなく、なけなしの貯金をはたきました。>
『信ずれば成る』今だからこの言葉が言えます。当時はただその想いを強く持ち続けました。
仕事を紹介してくださった先輩・友人・知人・多くの人々のお陰で今があります。
自分ひとりで出来ることはほんの少しです。
我儘な所長を支えてくれた歴代のスタッフ、協力事務所の方々、そして家族に感謝します。
何よりも私を信頼し、大事な仕事をご依頼下さったお客様を有難く存じます。
敬愛する曻地三郎先生のように生涯現役でありたいと願っています。